音楽家の難聴

プロの音楽家にとっての聴覚とは

仕事(耳鼻科医)と趣味(ジャズ)の関係でたくさんの音楽家と知り合いになります。そのため我が医院は時に音楽家のたまり場にもなっています。彼らにとって耳(聴覚)は大切な商売道具です。
一般の方が難聴になるのも大変な苦痛ですが、音楽家の難聴は日常生活の支障以上に仕事?というよりも命の次に大切な音楽を全うすることーを奪ってしまうので、我々の想像を絶する災難といえます。かのベートーベンの苦難もいかほどだったかと思うと楽聖“命”の私としてはとても人ごととは思えません(ベートーベンは私の青春でした)。

音楽家にとっては、重い両側の難聴でなくとも、片側が少し悪くなるだけで大変なことになる、ということが分かったのは耳鼻科医になってしばらくしてからでした。片側の一部の音域の難聴がある場合、普通の人では片耳がなんか変だなと思うだけですが、プロの音楽家にとっては聴こえてくる音楽が全く違うのです。つまり左右の耳から聴こえてくる音の高さ(ピッチ)が違うため、音楽が汚く聴こえたり、演奏が下手に聴こえたりするのです。たとえば片側の低音の難聴がある場合、悪い側では良い側と比べて同じ音が高く聴こえます。左右で1/4音からひどい時で1/2音ぐらい違うときもある。
ということは、近頃ではカラオケでも簡単に半音ずつバックの音の高さを変えることができますが、あの半音ずれた感じが左右別々に襲ってくることになります。プロでなくてもいかに気持ち悪いか、想像できますよねー。

このように深刻ではあるが微妙な症状はほかの耳鼻科医院ではおおかた無視されるようです。治療は一般の方とさほど変わりません。特別に指導するのは音楽するときに悪い耳に耳栓をしてもらうぐらいです。耳の本体が治ればそれでよしですが、聴力が戻らなくても次第にその状況に慣れて苦痛のなくなる人もいます。

しかしその過程では、こちらが病気と音楽、双方への理解を示すことが大切で、それにより自分の耳の状況を納得し、受け入れることはできるのです。状況が客観的に分かれば、すぐ治らなくても心は落ち着くものです。それも一つの癒しです。
知り合いで片耳がほとんど聴こえなくても、すばらしく魂に響く歌をうたってくれるヴォーカリストがいます。彼女も以前はずいぶん悩んでいたようですが、最近では見事に吹っ切れて一段と高い境地で音楽活動に邁進しています。こういう人をみていると、結局人間の幸、不幸は心のあり方次第だなと納得します。

歌手の声がれ

明日が本番という緊急事態には…

歌い手にとって声が出なくなること、これも死活問題です。 医院にはクラシックからジャズ、演歌、邦楽、ロックまでいろいろなジャンルの歌手の方々がいらっしゃいます。歌手以外でもアナウンサーや舞台俳優、狂言師など声を使う専門家も度々お越しになります。
大部分は風邪や、無理な声の出し過ぎによる声帯や周辺の炎症が多いのですが、長引く声がれの場合、有名な声帯結節や声帯ポリープ、時には喉頭がんになっていることもあり、治療は少々厄介なこともあります。

さて、こちらの腕が試されるのは明日、明後日に本番があり、それまでになんとか声を正常化したいという緊急事態の場合です。原則として練習やリハーサルでは最小限の発声とし、イメージトレーニングを中心にすること、本番はのどに力を入れず、腹式呼吸で声を出すことを指導しています。水分を良くとり、乾きを避け、声帯の炎症を抑える薬を服用することは言うまでもありません。

ただ、これだけでは緊急の危機管理にならないこともあるのです。 わたしの緊急治療は、喘息の患者さんに使うステロイドの吸入薬を短期間だけ吸ってもらうことです。本当は喘息の薬でも、吸い込むときに声帯にも薬の成分が付着して、声帯の炎症を早めに抑えるので、急ぐ治療にはこれが一番です。この治療でぎりぎり本番で良い声が出たと感謝されたときは、思わずバンザイしたくなります。

しかし、ポリープ(声帯の一部の水ぶくれ様の腫れ)や声帯結節(声帯の酷使によってできたタコのような固い腫れ)ができていると緊急治療も即効性はありません。これらの場合は普段の発声方法に問題のあるケースもあります。演歌の森進一さんやロックのロッド・スチュアート氏などは明らかに声帯結節ですが(診たことはありませんけど)、一度声をつぶしてから独特の個性を獲得していますから、一概に治してしまうのが正しいかどうか・・・。
ただしポリープや結節は最終的には手術でよくなりますので、救いはあります。急がなければ気長に消炎治療を受けていただき、だめなら手術か、その状態を新しい個性として受け入れる、ということになりましょうか。 実は声がれを経験して初めて正しい発声法を意識した方も多いのです。どんな試練でも結局は必要でありがたい経験になるのでしょうね。